『Sweet Candy Rain』PVに登場するタクシー運転手は、
「自分しか見えてない人って最近多いんじゃないですかね。」と話す。
そう、確かに自分だけの世界に没頭する人間が増えているとは思う。
けれど、だからと言って自分の事が良く見えているかと言ったら、
どうもそれは違うのではないかと感じる。
自分を取り巻く世界の事すら曖昧なのに、否だからこそ、
自分自身も理解し切れないのではないだろうか。
実際私自身がそうかもしれない。
PV冒頭でイチジクの実の皮を剥き続ける女性は、
『「いちじく」って一日一つずつ熟すから、「いちじく」って
言うんだって。「いちじゅく」』と語り掛ける。
何故「いちじく」なんだろう?
「いちじく」は、古来から「知恵の木の実」とされてきた果実だ。
一見花を咲かせる事無く実を結ぶから「無花実」とも書き記される。
けれど実際は、実の中に沢山の白い花を咲かせている。
花が外から見えないだけなのだ。
アダムとイヴが禁断の木の実りんごを食べて、真っ先に自分達の身体を
覆ったのは「いちじく」の葉だった。
何故、この部屋の天井の隅の染みは、次第に拡がって沢山の「いちじく」を
実らせているんだろう。
登場人物達は、必死に「何か」を開けようとしている。
「知識」を「真実」を得ようとしているのだろうか。
PVの中で女性とYoshii Lovinson扮する謎の男性は、熱心にサリンジャーの
「フラニー/ズーイー」を読む。
自分を含めた廻りの人間達のエゴと欺瞞に傷つき絶望する女子大生
フラニーと彼女と同根の繊細で鋭敏な頭脳を持ちつつ、孤独と
空虚、疎外感というべきモノに囚われながらも、毒舌と諧謔の顔の
下に優しさを秘めた彼女の兄ズーイーの話だ。
救いを求め苦悩するフラニーにズーイーは彼女自身のエゴを
指摘しさらに追い詰めてしまうけれど、最終的に
彼ら兄弟の子供時代に体験した、7年前自殺した長兄シーモアが
『どこかに居る太った夫人の為に靴を磨いておけ』と
言った出来事を話して聞かせる。
取るに足らない存在のように見えるものの中にも神は宿る。
人間のはるか上空に神が存在するのではない。
人の心の中にこそ神・・・聖性、貴さがある。
その事に気づいた時、フラニーは光を取り戻す。
生きる歓びと世界への愛を快復する。
「フラニー/ズーイー」は、迷える魂の救済の物語だと思う。
翻って『Sweet Candy Rain』は、孤独な女性と男性と少女が
登場する物語だ。
タクシー運転手は「私が殺した・・・私が殺した。
お前は、・・・私の妻に似ている。」などと呟いている。
Yoshii Lovinsonの気ぐるみ?を着た男性は、何者だろう。
この世のものではない存在?
それぞれの登場人物の分身であろうか?
登場人物達は、鏡やガラスに映る自身の姿を見つめる。
その中に何を見ているのだろう。
“もう誰のせいにもしないって”
この最後のフレーズは、やはり私には絶望の叫びだとは聞こえない。
“救いだった神すらもう
SAY GOOD BYE GOOD BYE SAY”
「誰のせいにもしない」という事は、全て自分で引き受けると
いう事なのではなかろうか。
言うなれば『赦し』・・・他者も自分をも赦し受け入れる事、
PVのラストは魂の浄化だと感じた。