ROMANTIST TASTE

この羽よりも軽いもの?

馬鹿な女の怨み節

BridgeのBBSでここのURLを残して来たのに、こんな事を書くのは
気がひけるけれど、自分の心に蓋をする事は出来ない。
私は、渋谷陽一氏が好きだ。
彼のROCKに対する愛と情熱の深さに尊敬の念を抱いている。
吉井和哉を見守る愛のまなざしに感謝している。
けれど今、BridgeのBBSで「渋谷さん、THE YELLOW MONKEYのインタヴューを
ありがとうございます!」と感謝の声が溢れているのを見ると、
「あなた達、4人の其々の解散インタヴューを目にしてもまだ
『感謝してます』って言えるの?」と思って仕舞う。
渋谷氏は、吉井和哉の才能をとても愛して呉れているかも知れないけれど、
正直THE YELLOW MONKEYというバンド自体に対しては、どうだったんだろう。
私は、2000年秋、彼らが活動休止を発表した時からずっと、
「あの98〜99年の119本にも及ぶパンチドランカーツアーがバンドを疲弊させ、
活動休止に追い込んだ元凶だ」と思って来た。
そう思おうとして来た。
けれど、本当は違うんだよね?
98年春、アルバム「PUNCH DRUNKARD」が発表されて、ROCKIN'ON JAPANで
表紙・巻頭インタヴューが載った時、既に渋谷さんは、彼ら4人へのインタヴューで、
THE YELLOW MONKEYの(特に吉井さんの背負ったモノの重さ)問題点に
気づいてたよね?
《「PUNCH DRUNKARD」というアルバムで吉井は全面的なプロデューサーとして
力を奮ったけれど、他のメンバーは「バンド的なサウンドへの変化」という事に
意識的な自覚は無かった。》
これって、凄く重大な事じゃないですか?
メンバー達の吉井への全面的な信頼に、渋谷さんは、危惧を抱いた筈だ。
吉井の孤独を見抜いていたよね?
Bridgeでの吉井へのソロインタヴューでも、問い質していた。
吉井自身の答えは、「うん・・・大丈夫だと思いますけどね。」だったけれど。
全然、大丈夫じゃなかったじゃないかあ!
結局、渋谷氏は気づいていた。吉井はなんとか理想に近づこうと足掻いた。
メンバーは、一丸と為って闘った。
一年間のツアーを終え、多くのモノを手にし、そして失くしたモノも多かったろう。
あの時もっと休めていたら?そう考えるのは、結果論に過ぎない。
外部プロデューサーを付けての試行錯誤・・・そして活動休止に至り・・・
3年半という時間は、虚しく過ぎた。
もうあの4人でのTHE YELLOW MONKEYには帰れない。そういう事だ。
渋谷さんに、「あんなに前から気づいてらっしゃったのに、
何とか為らなかったのですか?」
だなんて、筋違いも良いところだ。
でも、私は「ずっと見守っていてくれてありがとうございます。」だなんて言えない。
聞き分けの無いファンでごめんなさい。